【幼虫】7話〜彼女〜

「私はずっと応援してるから」

 堕胎後も彼女は変わらなく優しくしてくれた。ずっと私の世話を焼いてくれた。そうして高校三年生になり進学が視野に入ってきた。

 付き合い始めたときに私が何となく「専門学校にいって美容師になる」と話していた際に、彼女は「じゃあ私もスタイリストになるね」と笑って話していた。学校の教師はみなが反対していた。何故なら彼女の成績が極めて良かったからである。結局、彼女は美容師の専門学校に進学した。

 それにも関わらず当の私は関西の大学に進学した。彼女に話した美容師のことなんか忘れていた。高三の秋、進路について彼女に話したときには、「え?美容師になるんじゃないの?まあいっか。私はずっと応援するからね」といつも通り笑っていた。
 
 そうして、彼女と迎えた三度目の春、私は大阪の街に移り住んだ。

【幼虫】6話〜水子〜

「ばあちゃん、彼女が妊娠した」

 高校2年生の夏、彼女が妊娠した。私が泣きわめく中で、彼女は私の頭を擦っていた。私の涙は決して彼女に対してのものではない。私に対するものだった。その子供は私にとって不要だった。

 私はずる賢く考えた。何とか私と彼女の両親にバレずに堕胎できないか。そこで、私は祖母に泣きついたのであった。事情を説明し「今後のために何とかしてほしい」と。祖母は困惑したが黙って頷いてくれた。

 夏休みの晴天、午前10時、祖母と彼女と私は三人で隣町の産婦人科を受診した。目的は決まっている。堕胎だ。街では子連れの母親が楽しそうに歩いていた。私は知り合いがいないかキョロキョロと周りを見渡していた。

 彼女と祖母はただしっかり前を向いていた。

【幼虫】5話〜高校進学〜

「君、吹奏楽部に入らない?」

 私は両親や祖父母が望んだ地元の進学校に無事入学した。倍率1倍ちょっとで同じ中学校の人間が5割以上受験するといった条件下で試験に落ちる訳はなかった。

 ただ両親、祖父母などは皆泣いて喜んだ。合格発表の際に泣き崩れる友人がいたが、私は冷めた気持ちで遠くからそれを眺めていた。

 高校では吹奏楽部に入部した。運動部に入ろうと考えていたが美人な先輩に誘われ、何となく吹奏楽部に入りサックスを選択した。この頃から人に流され、こだわりも無く過ごす日々が始まっていた。

 入学して間もなく同級生の吹奏楽部の彼女ができた。彼女とは大学1回生まで付き合うことになる。付き合うきっかけは彼女からの積極的なアプローチだった。

 押しが強く面倒見が良い、自分をしっかり持っている誰が見ても魅力的な人物だった。当時の私は顔は整っている方で背も高く、また、幼少期に備えた人当たりの良さでやはり高校においても非常にモテた。彼女は地元で評判の美人であったことから、「人生は簡単」という認識に拍車がかかるばかりであった。

 そうした高校生活の中で私は大きな罪を犯してしまうことになる。

【幼虫】4話〜簡単なこと〜

「母さん、約束だからテレビ買ってね」

 自分の部屋を手に入れるため学習に励んだ。中間、期末試験において学年で10位に入る程度はあっという間だった。簡単なことだった。こうして部屋を手に入れ、テレビやMDコンポ、プレイステーションなど次々と獲得していった。

 こうして成績が上がっていく私に、親だけではなく祖父母も私に期待するようになっていった。味をしめた私は祖父母にも約束を取り付け、欲しいものを手にしていった。

 私は自身のコンプレックスにより人一倍、人の表情や感情を読み取ることに長けていたため、まわりを利用するためにうまく取り入った。私を取り巻く人間は私を好意的に見て評価した。私はただ自分の利益のために振る舞っているにも関わらず。

 こうして手に入れた部屋に友達を招きゲームをして遊び「普通の学生生活」を送っていった。

 しかし、幼虫は確実に存在していた。親、友人、誰にもそれを知られないように取り繕う私の心は、思春期に突入する頃には既に壊れていた。

【幼虫】3話~欲求~

「今週の土曜日、岡本君の家に行っていい?」

 中学二年生になる頃には、部活友達の家によく遊びに行くようになり、プレイステーション任天堂64に熱中した。友人宅にはゲームが何十本も、ゲームカードが何百枚もあり私の心をくすぐった。

 一方で私は、自分の部屋も割り当てられておらず、ゲームは勿論、一枚のカードも、ましてやテレビなんて一家に一台しかなく、とても人を呼べる状況では無かった。当時の中学生の遊びにはゲームが必需品だった。「部屋がなくて」なんて恥ずかしくてとても言えず、「父親が厳しく家で遊べない」と皆に嘘をつき、決して自宅に友人など呼ばなかった。

 私の家は、父が三交代の工場勤務、母が看護師であった。二人とも夜勤が多く、皆が揃う機会はあまりなかった。両親には住宅ローンやマイカーローンがあったようだが、子供二人の四人家族であり、普通では金銭的に不自由はないはずだが、両親ともに金遣いが荒く、「お金が無い」が母の口癖だった。よって、部活以外で何かをおねだりしたことは一度もなかった。「自分の部屋が欲しい。テレビゲームを買って欲しい」の一言が毎日喉の奥まで昇ってきていたが、それを唾と一緒に飲み込んだ。

 そうして欲望を我慢していた私だったが、ある日転機が起きた。

 中学三年の夏、高校受験の話題が出始めた頃、母親から「そう言えば、勉強は大丈夫?近所の普通科高校に行けるの?」と私の勉強を心配する発言があった。…いや、正確には、母は見栄はりであったため、「知り合いの子供が進学校に進学し、自分の息子がそれより低い偏差値の高校に行くことを恐れていた」だけであった。どこかで同級生の親と出会い、高校進学の話でもしたのだろう。従来、私に無関心だった母の性格は十分承知しており、表情と声色だけで「それ」は直ぐに分かった。

 私はそもそも勉強が不得意ではなく、試験で上位50番以内に必ず入っていたことから、該当の高校には楽に行ける水準である事が分かっていた。母の希望に沿える状況であったが、母の心理につけ込み、人生初めての「嘘」をついた。

 「今のままでは難しい。一生懸命やっても皆に追い付けない。そう言えば塾の賢い友達に聞いたら、『お父さんやお母さんと約束して、テストで30番以内になったらゲームを買ってもらう』とかのルールを作ってやってるみたいなんだ。そういうやり方が良いって塾の先生も言ってたよ」

 母親の反応は鼻から完全に予想が出来ていた。返ってきた言葉は「友達よりも良い成績にならなくちゃ。何か欲しいものある?お母さんと約束して」だった。

 私はこう答えた。「皆持ってるし、自分の部屋が欲しいな。30番以内に入れたらお願いします。二階の小さい部屋で良いから」

 こうしてうまいこと約束を取り付けた。中間テストの結果次第で、自宅二階六畳物置部屋は私のものになる。振り返ればこの出来事が、「人の心理を探り、言葉巧みに平然と騙す」ことのきっかけになったのかもしれない。

【幼虫】2話~殻~

「岡本君、土曜日市営コートに行こう!」

 中学に進学した私は、当時の流行りの某テニス漫画の影響を受けて硬式テニス部に入部した。喘息が完全には治っていないため、毎朝毎晩服薬し、朝練から放課後の練習まで汗を流した。今でもこんな私に良くしてくれる数少ない2名の友人との貴重な出会いの場ともなった。

 スイミングスクールに継続して通っていたからか、薬を飲むのを忘れた日も発作は起きなくなり、中学三年生になった頃には薬の処方は終了した。こうして私の一つの弱点は無くなったのであった。

 中学三年間は部活主体であったからか、徐々に虚弱体質が治り、身体中真っ黒な至って元気な少年へと変化した。それにともない、ある日から女性に人気が出るようになり、学校内にファンクラブが出来た。自宅に帰宅した際、知らない女子生徒が待ち伏せしていたことや、告白の電話がよくあった程であり、自慢じゃないが相当にモテた。

 こうして私は最大のコンプレックスからもたらされる屈折した感情を内包しながらも、友人や異性に好かれ明るく振る舞う、実にアンバランスな思春期の時代を送ることになった。周囲に異常に気を配り、自分の欠点を躍起になってひた隠し、その一方で、人に気に入られる事を望む歪んだ性格に変貌していったのだった。

 小学生時代六年間の遊び仲間だった健人は、生徒数の多さに心をやられ入学後間もなく不登校になっていた。そんな彼を心配する自分を装い周囲の好感を得る一方で、実際は彼に何の関心もなく自分自身が良ければそれで良かった。エゴの塊で歪んだ私を被う醜い殻は、とうとう今も変わることなく、日々分厚くなり続けている。

【幼虫】1話~炎天下の発覚~

「…おい、祐介っ!頭に変な虫付いてるぞ!」
 
 茹だるような8月の猛暑の中で、友人である健人の一言で、当時小学一年生だった私の心と体は一気に冷え込んだ。あれから20年経過したが、あの時の映像が今も私の頭からこびり付いて決して離れようとはしない。

 幼少期から喘息とアレルギー性皮膚炎、それともう一つの病気を持ち、人一倍虚弱な体質だった。小学校時代は、野球やサッカーのクラブチームに入ったが、合宿中に喘息が発症し、早朝、チームを後にするなどして決して長続きはしなかった。

 その後、医師からの勧めでスイミングスクールに入り体を鍛えることになる。心肺機能が上がったからか、中学に入学した頃には、喘息は発症しなくなっていた。また、母親の勧めで地元の小さな塾に通い、人並みに勉強もした。

 中学生になった私は、生徒の多さに面食らった。過疎地域の私の小学校は全学年で50人弱の生徒数。比べて、中学校は一年生だけで300人。大した町では無かったが、某大手電機メーカーの工場が有り、それなりに人の多い隣町があったからだ。私の生まれた村から数㎞離れた場所にそんなに人がいるなんて、中学生になる前は思いもしなかった。

 体に加えて心も弱かった私は、無事やっていけるか実に不安であったが、その感情は直ぐに消え去ることとなった。